昭和42年9月16日 朝の御理解
お道の信心が教祖の神様によってはじめられ、それは安政六年の十月二十一日、立教神伝が下ってから、この方でございます。どういうわけに、どうして、金光教の信心が始められなければならなかったのかと、立教神伝を教祖の神様が受けられて、よその教会に参りますと、お月次祭、様々なお参りするたびにこの立教神伝が拝読されます。ここでは読んだ事はございません。
今日はその立教神殿を読んでみましょう。はぁーこういうような訳で金光教の信心が世の中に必要であったんだと、金光教の信心ができたので、こういような助かりになってきたんだと、といったようなことが分かります。
「この弊切り境に肥灰さしとめるからその分に承知してくれ。外家業をいたし、農業へで、人が願いで呼びにきもどり、願いが済みまた農へで、また呼びにき、農業する間もなし、きた人もまち、両方の差支えに相成り、何とか家業をやめてくれんか。その方、四十二歳の時には病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏に願い、おかげで全快いたし、その時、死んだと思うて欲を放して天地金乃神を助けてくれ、家内も後家になったと思うてくれ、後家よりまし、物言われ、相談もなり、子供つれてぼとぼと農業しておってくれ、この方のように実意丁寧神信心いたし居る氏子は世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次助けてやってくれ、神も助かり、氏子も立ち行く氏子あっての神、神あっての氏子、繁盛いたし、末々親にかかり子にかかりあいよかよで立ち行く」。これが立教神伝でございます。
こういう願いが教祖の神様に対して天地の親神様から下った。当時お百姓をなさっておられた教祖の神様へまだその時は確か四十六歳だったでしょうかね、もう、いわば、働き盛りである教祖の神様に、ね、その、百姓でおあなりにるその百姓の仕事をやめてくれと仰るのですから、神様の願いの大変なものであったと同時にそれをはいと素直にそのままお受けになった教祖の神様も、まあ、大変なっことだったと思いますです。
で、その立教神伝の中に現れておりますように、この方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が世間になんぼうも難儀な氏子ありと、取次助けてやってくれと、しかも、その取次助けてやってくれというのは、ただ、世間の様々な難儀な氏子が助かるという事ではなくてですね、神も助かり氏子も立ち行く道とこう仰っておられる、ね、神も立ち行き氏子も立ち行く、親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く、そういう道をたててくれ、そういうおかげを受けてくれ、そういう信心を氏子に分らせてくれ、取り次いでくれと、こういう切々たる天地の親神様の願いが教祖の神様に下さったわけです。
そこで、この立教神伝に基いてのお互いの助かりでないと天地の親神様の働き、天地の親神様のお心に添う事にならないのです、ね、天地の親神様のお心に添い奉る助かり方、そこんところをお互いが頂いていかなければ金光様のご信心の本当のおかげには到達できないとこう思います。
お互いが様々な事柄から病気をしておる人は全快のおかげを頂きたい、金銭に困っておる人は金銭のお繰り合わせを頂きたい、実意を持って願うならば、牛馬の事に至るまで五穀豊穣に願い、ね、牛馬の事に至るまで身の上安全、一切の事を願えとも仰る、実意を持って願えとこう仰っておられます。
そういうたとえば、どのような事柄でも願って、助けて頂く願いの人がその助かり方なんです。その助かり方が神も助かり、氏子も立ち行くという助かり方になっていかなければならないと、そこに、お道の信心のやっぱり助かり方、お道の信心のここになってこないと真実の助かり、本当の助かりになってこない、ね。
例えば、ここに金銭の不自由をしておる人が金銭のお繰り合わせを願っておかげを頂いていく日にち、おかげを頂いていくという、ね、だから、それだけではいけないという事である、それは神も助かりという、まあ、例えで言うならばお互いがままになるおかげを頂くということ、まあ、ご飯ならご飯をおなかのすいた人がご飯を頂くと、それだけのままになるという事はご飯を頂けたというだけではいけないという事、ね、塩気もいる、ね、言うなら、副食が必要であるという事
ただままになるというだけではいけない、自分が腹いっぱいになった分だけではいかん、それでは、いかにもひもじい時に頂くのですから、おにぎりの一つでも頂いてもそれはおいしくて、腹がいっぱいになるでしょうけれども、それだけではつまらない、それにはやはり、まあ、三界の珍味とまではいかんに致しましてもです、ね、せめてお漬物なりと、まあ、みそのおつゆなりと、たまにはお魚の煮付けでも肉でも、様々な副食というものがあってままになるということになって、初めて本当のおかげなんです、ね、足ろうたおかげ、そういうおかげを受けてくれよとこう仰る。そのために、私共が神様の、いわゆる、心を心としての信心。
そこで私共がですね、どういうことを大事にしなければならないかというと、ね、神様がままにならせて頂くための、まあ、いうなら、ご飯を与えて下さるとするならばです、私共はその副食を頂くための精進、努力をしなければいけないと思うのです、ね、だから、その、世の中には沢山な副食になる内容が沢山ある、魚もありゃ、お肉もありゃ、お野菜もあるというような、ね、そこで私共の周辺に例えば様々な問題とか、起きて来る様々な難儀がございますが、それをいかに味つけるかという事、いかに味付けして行くかという事、ね、結局美味しゅう味を付けをしなければならないように、それを有り難く、有り難いという味をつけていかなければならない、ね、ままになるという、どうぞお願いしますという、いわば、本当の助かり、お腹のすいておる人にご飯を神様が与えて下さるような働きがある、そこで、私共はそのご飯をいよいよおいしゅう頂かせて頂くためにです、私共は様々な副食を作らせてもらう筋を覚えて行かなければならない、方法を覚えて行かなければならない、ね。
腹も立つ問題もある、情けないと思う問題もある、もう不安で不安でたまらない、または寂しゅうて寂しゅうてたまらない、そういうような事柄、問題をです、いかに、そういうような例えば肉にも匹敵するでしょう、野菜にも匹敵するでしょう、ね、お魚、もう、いうなら、匹敵するような材料がたくさんある、ね、それを例えば美味しいという味を付けて行かなければならないように、有り難いという味をつけていかなければならない。
そこの、例えば有り難く味をつけさせて頂く例えば方法とでも申しましょうかね、それを、ここでは皆さんに聞いてもらっておる、私は説いておる、教えておる、また、私自身がそのことを、まあ、様々な本当に腹の立つような問題もある、ね、血の涙が出るような事もあるけれども、それを、血の涙と思うような、思うような事を、それこそ、有り難涙がこぼれるような有り難い味わいをつけておる、ね。
様々な問題をおいしいなあとこう頂かせてもらえるようにです、その味付けを私自身がつけていっておる、そして、皆さんにこういう味をつけると、こういう風に煮たりするとこんなにおいしいですよと、いわば、調理法を皆さんに教えておるわけである、そこに、私共が本当に有り難くままになれるという信心がある、ね、ままになるおかげを頂いて、それに、有り難い副食を添えて頂いてから、もうままになるというおかげ、ね、そこんところにですね、神様の願いというのがあるのです。
いかにも天地金乃神を助けてくれとこう仰る、天地金乃神様が助かられるという事はどういう事だというとです、私共人間氏子がです、真実の助かり、ね、腹いっぱいになったけれども、例えば、お金はできたけれども、病院が絶えない。健康になったけれども、お金がない、ね、健康には。
昨日、ここの部落の方で毎日参って見えます方があります、それは、やはり、一日様々な難儀な問題があります、その事をお願いをしてございます、それで、私先日、これはね、やっぱり自分の家のめぐり、または身のめぐり、家のめぐり身のめぐり、そういう難儀を感じなければならない元が必ずあるんだと、ね、だから、そういうめぐりをいつ自分が作ったのでしょうかと、あなたが四十歳になられるならば、四十年の間に作ってきておる、同時にもう先祖が作ってきておる、いうなら、あなたがどこどこからここの合楽という部落に嫁って見えられた、あなたの里の方の家のめぐりもある、だから、そういうようなめぐりが現在あなたが感じておられるような難儀の元になっておるんだから、めぐりのお取り払いを頂くためにこういう信心をしなければいかん、あーいう信心をしなければいけないということをあなたにお話しをしておるのですよということを私先日話しておった。
昨日がちょうどこちらのよどでございましたから、里のお母さんが見えられました、でそのお母さんに、その、今ずうっとこう金光様にお参りしよる、本当に有り難いお話を毎日頂いてから、まあ、結構な日暮しをさせて頂いておるが、もうこの問題だけはなかなか、まあ、おかげにならん、それはめぐりのせいだと先生が仰るのだけれども、しかも、私は里からのめぐりを持って来とるといわれるのだけれども、大体里にはどういうめぐりがあるじゃじゃろうというよう話をお母さんと二人でなさった、里のお母さん。
そしたら、お母さんがいわれるのに、あんたには言わなかったけれどもというて話されるのにですね、その方の里の家にはもう代々もう私が知っておる限りのところからですね、男の子が育たないというめぐりがあるという事が分かった。もう、そのお家は絶対男の子を育てないっち、やっぱりめぐりなんていうてもです、そげなんものがあるかと、ね、まあ、仏教的には因縁とでも申しましょうか、そういう因縁があるとは目には見えないんです、目には見えないけれども難儀そのものは確かに、男の子はその家には育たないという事実があるということ、ね。その例えば元を正して頂くためにです、めぐりのお取り払いを頂くためにお互い信心の稽古をさせてもらわなければならない。
先生が仰ったように、確かに私の里からめぐりを持ってきておりますけれども、ところが、こちらに参りましてからは娘も頂いとりゃ息子も頂いておる、ところが、その息子の問題でお願いになっておられる、ある難儀な問題をその息子が持っておるわけです。ね、してみるとです、例えば少々問題をもっておる息子であっても自分の家には息子が育っておるというおかげを頂いておるのですから、その事だけでもお礼を申し上げねばならんということが分かってきた、もう内の息子ばっかりどうしてじゃろうかとこう、ね、思うておったけれども、お話を頂かせて頂くようになって、その息子の事についてでもです、お礼を申し上げれるようになって来たというのである。さぁー今まではこの息子の事が苦かったり、辛すぎたりするようなものである、ところが、その事が分らせて頂いて、昨日、調理法が分かって来たらそれが有り難いという事が分かってきた、ね、その味がついて来とるわけなんですよ、ね、今までは、どうしてじゃじゃろう、どうしてじゃじゃろうとばっかり思うておったのが、ね、だんだん、お話を分らせて頂くようになったら、神様がこうして実はおかげを下さっておるんだという事になってきた時にです、有り難いことになるんです。
二、三日前、善導寺の久保山さんがここでお届けをされるのに、御理解を頂き終わってからまたここへ出てみえましてから、先生、もう私共の周囲にはもうどうしてごげなん事になるだろうかといったような事は絶対ありませんですねとこういわれる、そうですよと、神様はこうして私共におかげを下さろうとしておる、ね、どうしてこげなん事になるじゃじゃろうという事なくてからね、こうして、神様が私どもにおかげを下さろうとする働きがあっておるんだと、分からせて頂きますと、もうここにはどういう問題でもです、素晴らしい味がつけられる事が分かるですね、どうしてこげなん難儀な問題があるじゃろうかというてから、こうして神様が私共を磨かせて下さろう、改まらせて下さろう、ね、という事が分かってくる時に、その問題、どうしてと思うておったような問題を通して私が磨かなければおられん、改まらなければおられん、限りなく有り難い私になるためにも限りなく美しゅうならせて頂く事に努めなければならないという事になる、ね、そこに、いわゆる、神様の願いというのはそれなんです、本当にこの世は有り難い極楽であると例えば分からせてもらえれるようなおかげを氏子が頂くという事をです、神様の第一の願いとしておられるのです。
そういう、有り難い、有り難いという心で、いよいよ、難儀な氏子が助かっていくことのために奉仕する、ね、そこに、神の助かりがある、私共の助かりがある、そういう助かり方になってきませんとですね、お道の信心の本当の助かり方になってこないのですよ。
立教神伝をただいま皆さんに聞いて頂きましたようにですね、教祖の神様が天地の親神様の御恩徳を氏子に取り次がれた、ね、おかげを取り次がれた、そのおかげを取り次がれるというのは、ただ、おかげだけを取り次がれるのではなくてです、神様の心を取り次がれる、ですから、その神様の心を分かって、神様の心に添い奉るところの生き方にならなければいけん、そこに、神様も助かってくださり、私共立ち行くところのおかげが受けられるのです。
立教神伝は、まあ、いうなら、現在教団でいろいろに説明を加えてございます、あらゆる角度から立教神伝をいかに頂くかという事を、まあ、教学されております、けれども問題はです、神も助かり、氏子も立ち行く道が顕現されて来る、現されて来るという事にあるです。ね、そこで、神も助かり氏子も立ち行くという事はです、私共が病気が治りました、私共がお金のお繰り合わせを頂きましたというだけのおかげに留まらす、そういうおかげも頂かなければなりません、けれども、そういうおかげがです、ね、頂かせて頂く内に、ただいま一言で申しますなら、久保山さんがあー仰っておられるように、この世の中にはどうしてこのような難儀が満ち溢れてあるであろうかという間は、いわば、お道的な助かりじゃないです、ね、どうしてじゃなくて、こうして神様が私共に分からせて下さっておるのだと、私共に力を与えて下さっておるのだと、私共をいよいよ立派にして下さるための神様の働きだと、いわゆる、この世の中には満ち溢れておるものは難儀ではなくて、この世に満ち溢れておるもの神愛あるのみだと、神様の愛の心があるだけなんだと、世の中にはと悟れた時にですね、私共は様々な材料に、様々なおいしい味わいをつけていけれる道を自ずから体得して行く事ができる、そこに、私共は本当にままになるおかげ、しかも、それは神様のままになって下さるおかげ、ね、神様の願いも成就し、私共の願いも成就していくというようなおかげになって来るのでございますから、ね、いよいよ、神様の心を分からせてもろうて、久保山さんじゃないですけれども、こうして神様が、ね。
例えば、そこに難儀な問題、腹の立つ問題が起こったといたしましょうか、もう、本当にあげなんこつ言うたけん、もうこういうこつになったというようにです、腹のだたしいとげじゃなくてです、神様があの人をつこうて私にこのようなおかげを下さろうとする働きが始まったんだという頂き方なんです、だからそこに腹だたしいものがないわけなんです、そういう助かり方をですね、私共が願い、またそういう願いをおかげをです、そういうおかげを求めての信心でなからなければならないということを一つ分からせてもらわなければならんと思うのです、ね、。
どうぞ、立教神伝の最後にございますように、あいよかけよで立ち行くと、神も助かり、氏子も立ち行く道を親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く、神様と私共がそういうあいよかけよの働きの中からです、私共が助かって行き、一家が助かって行き、だんだんめぐりのお取り払いも頂いて、それこそ、井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、私共はその井戸替えをするようなものである。一生懸命井戸替えをさせて頂いてから、八分目、九分目でやめたらいつまでたっても井戸の水は濁っておるようなもの、ただ、おかげだけに終始したおかげであったらです、いつまで立っても本当なおかげは受けられない、ね、その根から根からすっきり例えば井戸水が出て下さる、懇々と湧いてくるきれいな水が頂けれるようなおかげ、そういう道を私共は体得しようと願ってからの信心でなからなければならないという事が分かりますですね。
どうぞ。